いきなりですが私は愛を知ってるので死ねます。
極論すぎうち
死ねるか
「愛を知るまでは、死ねない私なのだ!」
この一文は、ある曲の一節なんですけど知っていますか?
そうアンパンマンのマーチの落ちサビの一節ですね。
めちゃくちゃ嘘ですね。
本当はあいみょんの「愛を知るまでは」にある一節です。
かれこれ二年くらいひそかに聴いては、この曲の様々な歌詞に励まされたり、聴き始めの頃は夜の川沿いを歩きながら自然と涙したり、そんなこともありました。(本当)(かっこつけてないです)(たまたまなんです)
本音を言えば、この曲において一番刺さった歌詞はこの部分ではありません。
私の場合は
「あー、誰にもないものを持っていたいのになぁ」
「あー、まだ咲ききれない花のような毎日だなぁ」
この二つです。一番と二番が違うだけ同じ部分ですね。
当時のなにもしてなくて、何もできなくて悔しくて、でも何もやる元気がなくてどうしたらいいかわかんない、そんな毎日をおくっていた自分にひどく刺さりました。
今もまだまだ発展途上でぐさぐさ刺さってはいるけど、、、
一方で、人間まだ咲ききれてないなと思っている方が、いろんなことのパフォーマンスはあがると思っています。それなら案外咲こう咲こうとしている自分は悪くないんだろうなって思います。
と、話始めれば止まらないほど刺さる歌詞があるというのに
この記事を書き始めた理由は、冒頭の通り違う歌詞にあります。
キーボードをたたき始める数分前、「愛を知るまでは」のyoutubeのコメント欄を見ていました。
その上位欄にたびたび見られたのが、タイトルの歌詞に関するコメントです。
「この歌詞いいよね」とシンプルに褒めるものもあれば、自身の体験と共にこの歌詞の良さや励まされた経験を語るものも。
この時、じゃあなぜ私はこの歌詞が刺さっていないのかを自然と自分に問いていました。
その答えは単純に「愛を知っていたから」でした。
(読む人によってはあまり気持ちのいい答えじゃないかもしれないです。すみません。)
私は、家族(特に母親)から愛をうけて育った自覚があります。そりゃもうストレートに愛をもらいました。不器用になかなか伝わらない愛とかではなく、本当に真っ直ぐな奴。
結果として、周囲の大切な人に対して、精一杯の愛をこめて生きていこうという軸が自然と形成されていたなと思います。不思議なもので、「愛」は与えると大抵「愛」で返ってきます。(片思いの場合とかは知らんけどな。当たって砕けるかもしれんしな。)
私は真っ直ぐ友人に気持ちを伝えることが多いので、向こうも真っ直ぐ返してくれることが多いです。そんな関係性がとても心地よいです。
すべてを知ってるわけではありません。流石に烏滸がましいです。
ですがなんとなく「愛」がわかります。
本当に何となくではあるけど。
しかし
やはり、愛を知ってるけど僕は死ねません
これはなぜかと考えた時、一つの答えを導きました。
「知った愛を返しきれてないから」
です。
私の人生において、家族からもらった愛も、友人たちからもらった愛も、これからもらえるかもしれない愛もまだまだ返しきれてません。
特にこの3年くらい、私にとっては誇張など一切なくほぼ毎日起きては絶望しておりました。そんななかでも頭に浮かぶのは愛をくれていた人たちでした。
どうやって生きていったらいいかよくわからなかったけど、とりあえず死ねないとそのたびに思っていました。
調子悪くてもいろんな人がずっと変わらず連絡をくれて、本当に恵まれた人間だと思います。
そんな人間が何も返さず死んでいいわけないのよな。
「愛を知るまでは死ねない私」なのかもしれないですが、私も皆さんも愛を知ったところでまだまだ死ねません。
この歌詞に励まされ、いずれ愛を知るかもしれないコメント欄の皆さん。
一緒に受けた愛を、愛で返していきましょう。それまでは生きましょう。
ちなみに僕は、愛のついでになんかプレゼントとかもくれると喜びます。