ツイッ〇ーブルー(力技)

ただ思ったことを書き連ねるだけでっせ

マルチバースの俺

今自分の過去とめちゃくちゃ向き合ってるんですけど、やっぱしんどいわけですわ。

 

でも苦しい過去をプラスに変換して活かすことが、私の昔からの方針です。

スルーとか、なかったことにして、とか得意じゃないんですよね。できないわけでもないんだろうけど、スッキリしないからしたくない。

 

だから向き合わないといけない。

 

いい風に捉えると、なんか成長しそうな感じがあるけど、

 

悪い風に言えば不器用で、変換できるまではとてつもなくひきづってしまうような人間。

 

とはいっても、今回は自分の性で過去と向き合っているのではなく、就活だから向き合わないといけないんですよね。この大学卒業後の絶望の負債と向き合わないといけない。

 

プラス変換とか、言語化とか得意である自負があるけど、こればっかりは得意分野でも対象がいやすぎて気が進まない。

 

すると、考えてもしょうがない別世界線の「俺」を想像しだすわけです。

 

新卒で入社してる俺。どうなってるんやろか。

 

入社したらしたで、えげつなく悩んだり、悔しい思いをしたり、いいことばかりでは絶対にないんだけど、自立して自分のペースを見つけて生きてられそうな気がする。

推敲も読み直してもないから、すごい読みにくいかも許して。

ブログ名の通りクソながいツイートなので。

 

人生の道が見えていて、当たり前の生活を自分の責任でいきていることが、今の俺・・・というかフリーターになる前の自分にとっては特に羨ましくまぶしく見えていました。

 

「新卒で入社しなかったからできなかったこと」ばかりを想像します。

お金を多少気にせず、ほしいもの買ったり、飲みに行ったりできるだろうな。

旅行にもっと行けただろうな。

幅広いキャリアを見れただろうな。

 

そうやって失ったものばかり考えていると、”得たもの”もあったことに気付きます。

ふと思いついたもので3つあります。

 

①キャリア像

新卒就活生時代、体に異常がでるまえは普通に就活してたけど、思い出せば思い出すほど職能や、キャリアに関しての解像度が低すぎました。恥ずかしいくらい。

そりゃ選択できないよな、進みたい道なんて。甘かったというか、やり方が悪かったなと思います。

 

今はこう思える程度には解像度が上がりました。

結局自分が将来的にどういう風に生きてたら幸せかを考えたら、そこからの逆算から少しだけ自分の歩むべきキャリアが見えた気がします。

 

②遊び、旅行

二年間、一人暮らしの家から動けずにいました。そんななか最高の友人達が、何度か私を助手席に乗せて遊びに連れて行ってくれました。

するとあら不思議。お金がなくて外出できなくなっていた反動もあり、大学生の時にあんなにドライブの誘いに乗り気じゃなかった男が、友人と出かけるの最高か?人間に様変わり。

 

同時に鹿児島に飽きてきたのも相まって、旅行したくないマンの自分が年一で旅行とかしたいっすね人間になりました。

 

総合して、遊びに関して積極的な気持ちになれるようになりました。家にいるしかない状況だったから、外に出てお金使って遊んでいる人が本当に羨ましくて、気付いたらこうなってた。

 

まあ、今でも変わらず家は大好きですけど。バランスが良くなったと表現するべきかも。

 

③人間関係

とにかくありがたいことに愛されていることを実感しました。

全然毎日起床したら絶望してたけど、一方で自分を大切に思ってくれている人に対して恩返しをしたくて生きてきました。

また、この期間がないとそれほど仲良くなっていない人がいたり、こういう状態だからこそ、就職してからこちら側の世界に来た友達の話を聞いたり・・・

 

就職した世界線で得ていたかもしれない人間関係は無いけど、こっちの世界線で得たこの人間関係は本当に素敵で、失った機会を嘆いているのはもったいないなとそう思わされます。

 

 

ちゃんと考えればまだあるのかもしれませんが、とりあえず3つだけ。

 

マルチバース(多元宇宙)風に考えて、あの人生の岐路でうまくいった自分はどうだったんだろう。そう考えると、別次元の自分がうらやましくなったり、妬ましくなったり、、(あんまり性格上妬むことはないので、妬んではないや)

 

考えれば考えるほど羨ましくなる。けど、自分のいるこの世界線を成功させる努力をしないと、また失敗・・・というか何もできなかった世界線の自分が、選択して前に進む自分を羨ましく思って、ていう繰り返しをするのでしょう。

 

最近気づいたというか、目をそらしていたのでしょう。

本当に良くないのは「失敗」じゃなく「選択しない」ことだということ。

 

別世界のことは考えても意味ないので、別世界の自分がこの世界の自分がうらやましく思うくらいの道を歩めるよう、コツコツやっていきたいと思います。

 

別世界の自分も、どうせ「俺」なのでこっちのことを想像してると思います。

みとけよ「俺」って感じ~

 

ノートにDVをしています

してません。

そもそもノートは家族ではありません。

 

 

 

最近、ずっとの頭の中を思考がぐるぐるしておりました。

 

そいつらも頭が支配されて...鬱というか、明確に自律神経失調症的なものが、呼吸のしづらさや動悸として現れておりました。

 

日課のランニングでも、すぐに喘息のようになって歩くことが大半で

何とももどかしい日々です。

 

そんな日々もそろそろうざいなというときに見かけたものが

 

「ジャーナル」

 

という方法。

 

簡単に言えば日記です。

僕にとっては吐き出しノートとも言いますし、思考整理ノートともいいます。

中学生にとっては黒歴史ノートともいいます。

 

お前らの実家にある黒歴史ノートみせろよな。(急)

(みせなくていいです)

 

かれこれ初めて五日目になりました。やめる気配が微塵もありません。

 

ところで私は、そこそこの継続力を持ち合わせた人間だとGIFしています。

GIFはすげーよ、ずっと同じ動きを繰り返して、継続力の鬼だぜ

 

は?(お前らは今頭の中が猫)

 

継続力を持ち合わせた人間だと自負しております。

そんな人間ですが、

 

あなたを悩みから解放する!

認知行動療法のひとつ!

愛と勇気だけが友達さ!

 

と、うたった、諸書く系の悩み解決ソリューション(三行日記とか)はどれも三日坊主でした。

というか二日目にはノートを開いてさえいません。

 

きっと私には向かなかったのでしょう。当時を振り返ると、何もできない毎日を日記に書くのがつらかったのかもしれません。

 

そんな人間がどうしてこの「ジャーナル」を続けていられるのか

これに対する自分なりの回答は

 

書き”殴る”

 

からだと思います。

 

スマブラでいえば、ガノンの横スマを三連発するくらい

スプラでいえば、敵が寄ってきたときにエクス本体でぶん殴るくらい

 

書き殴ります。

 

綺麗な感情も、暗い・汚い感情も全て頭に浮かんだまま全て書きなぐります。

誰にも見せれないノートを作ってしまいますがしりません。誰にも見せないので。

 

いたって単純な方法ですが、意外とスッキリするんですね。聞き上手な友達にえげつないマシンガントークで話したいことを話してスッキリする人の気持ちがわかります。

 

この現象を一人でノート相手にするだけです。

 

ノートに書かれるのは、自分の頭の中が文章になったものです。誰の感情も仲介せず自分の率直な思考・悩みがそこにあります。

 

そして、ノートに吐き出したおかげで、比較的スッキリした頭を一時的に手に入れることができます。

 

ただここで終わってはもったいないです。

悩みは解決しないと、それに対する「不安」はずっと居座り続けます。

 

書き殴ったあとは、掃き溜めとなったノートとスッキリした頭を使って

 

悩みの「重心」を探しましょう。

 

現代人の悩みは多岐にわたると思います。

悩みは一つだけです!ってひとはきっと少ないです。

 

それってデータとかあるんすか?

 

無いです主観です。

 

複数の悩みを抱え、今向き合いたい悩みがあるのに、別の悩みが不安をはじめとしたさまざまな感情で頭をさまよって支配される。そんな経験ないですか?

 

こういう時は大抵、結果的になにもできなくなることが常です。

困ったもんだ。

 

そんな時は、複数の悩みを一挙に「いい方向にシフトさせるような」ある一点を見つけましょう。これが悩みの重心です。数学みたいですね。

 

「解決」まではできなくとも、結局どの方針で動くことが全体的な視点でプラスに働くのかを、ノートに垂れ流した自分の思考を材料に考えるのです。

 

それを見つけたら「今はこれさえやれたらいい」と自然と思えてきます。

後のことは、方針どうりに進んで、より悩みを解決する力を身に着けた未来の自分に任せるべきです。

 

あれもこれも考えてしまう性分ですが、ジャーナルのお陰で、今の自分に大切なある一点を見つけることができました。

 

もちろん、まだまだ複数ある悩みの一つさえも解決できていません。しかし、それらに頭の中を支配されないことが、多忙で情報過多な現代において、本当に大切なことなんだなとこの数日で感じました。

 

これを読んでいる皆さんも、頭の中が思考で埋め尽くされてしまったら書きなぐってみてください。そこにあなたのやるべきことや、意志が隠れているかもしれません。

愛を知るまでは死ねない私なのだ

いきなりですが私は愛を知ってるので死ねます。

 

極論すぎうち

死ねるか

 

「愛を知るまでは、死ねない私なのだ!」

 

この一文は、ある曲の一節なんですけど知っていますか?

そうアンパンマンのマーチの落ちサビの一節ですね。

 

めちゃくちゃ嘘ですね。

 

本当はあいみょんの「愛を知るまでは」にある一節です。

 

かれこれ二年くらいひそかに聴いては、この曲の様々な歌詞に励まされたり、聴き始めの頃は夜の川沿いを歩きながら自然と涙したり、そんなこともありました。(本当)(かっこつけてないです)(たまたまなんです)

 

本音を言えば、この曲において一番刺さった歌詞はこの部分ではありません。

私の場合は

 

「あー、誰にもないものを持っていたいのになぁ」

「あー、まだ咲ききれない花のような毎日だなぁ」

 

この二つです。一番と二番が違うだけ同じ部分ですね。

当時のなにもしてなくて、何もできなくて悔しくて、でも何もやる元気がなくてどうしたらいいかわかんない、そんな毎日をおくっていた自分にひどく刺さりました。

 

今もまだまだ発展途上でぐさぐさ刺さってはいるけど、、、

一方で、人間まだ咲ききれてないなと思っている方が、いろんなことのパフォーマンスはあがると思っています。それなら案外咲こう咲こうとしている自分は悪くないんだろうなって思います。

 

と、話始めれば止まらないほど刺さる歌詞があるというのに

この記事を書き始めた理由は、冒頭の通り違う歌詞にあります。

 

キーボードをたたき始める数分前、「愛を知るまでは」のyoutubeのコメント欄を見ていました。

その上位欄にたびたび見られたのが、タイトルの歌詞に関するコメントです。

 

「この歌詞いいよね」とシンプルに褒めるものもあれば、自身の体験と共にこの歌詞の良さや励まされた経験を語るものも。

 

この時、じゃあなぜ私はこの歌詞が刺さっていないのかを自然と自分に問いていました。

 

その答えは単純に「愛を知っていたから」でした。

(読む人によってはあまり気持ちのいい答えじゃないかもしれないです。すみません。)

 

私は、家族(特に母親)から愛をうけて育った自覚があります。そりゃもうストレートに愛をもらいました。不器用になかなか伝わらない愛とかではなく、本当に真っ直ぐな奴。

 

結果として、周囲の大切な人に対して、精一杯の愛をこめて生きていこうという軸が自然と形成されていたなと思います。不思議なもので、「愛」は与えると大抵「愛」で返ってきます。(片思いの場合とかは知らんけどな。当たって砕けるかもしれんしな。)

 

私は真っ直ぐ友人に気持ちを伝えることが多いので、向こうも真っ直ぐ返してくれることが多いです。そんな関係性がとても心地よいです。

 

すべてを知ってるわけではありません。流石に烏滸がましいです。

 

ですがなんとなく「愛」がわかります。

本当に何となくではあるけど。

 

しかし

やはり、愛を知ってるけど僕は死ねません

これはなぜかと考えた時、一つの答えを導きました。

 

「知った愛を返しきれてないから」

 

です。

私の人生において、家族からもらった愛も、友人たちからもらった愛も、これからもらえるかもしれない愛もまだまだ返しきれてません。

 

特にこの3年くらい、私にとっては誇張など一切なくほぼ毎日起きては絶望しておりました。そんななかでも頭に浮かぶのは愛をくれていた人たちでした。

どうやって生きていったらいいかよくわからなかったけど、とりあえず死ねないとそのたびに思っていました。

 

調子悪くてもいろんな人がずっと変わらず連絡をくれて、本当に恵まれた人間だと思います。

 

そんな人間が何も返さず死んでいいわけないのよな。

 

「愛を知るまでは死ねない私」なのかもしれないですが、私も皆さんも愛を知ったところでまだまだ死ねません。

 

この歌詞に励まされ、いずれ愛を知るかもしれないコメント欄の皆さん。

一緒に受けた愛を、愛で返していきましょう。それまでは生きましょう。

 

 

 

ちなみに僕は、愛のついでになんかプレゼントとかもくれると喜びます。